山手通りより古くからある材木屋
都内でなかなか見かけなくなった材木屋。
それも「下小屋」と呼ばれる加工場をもった材木屋となれば尚のこと稀少だろう。
境橋から歩いて山手通りに差し掛かる手前に、そんな稀少な材木屋がある。
野口木材(有)は昭和11年(1936年)創業という長い歴史を持つ。
2代目の野口保男さんは、22歳の時にこの家業を継いだ。先代が亡くなったためだ。
「今度インタビューをさせて欲しいのですが・・・」
インタビューのアポイントを取ろうとしたところ、
「インタビューってのは面倒くさくてイヤだなぁ。その辺の写真を撮ってもらう分には構わないけどさ。当時の話といっても、うちが昭和11年に創業して、そのあと・・・というくらいで・・・。」
と、自然と、こちらが聞きたいと思っていた内容が語られ出し、急いでメモ帳を取り出す。
戦前・戦後の材木屋業
戦前、田舎から丁稚で木場へ来た若者は、10~15年木場で修行をして都内に自分の材木屋を持つというのが一つのキャリアモデルだったそうだ。
初代の野口保四さんは奥多摩から上京したが、木場ではなく四ツ谷に親戚の材木店があったのでそこで修行をした。
戦前で、ともかく物が無く貴重だった時代。
保四は、当時はまだ周りに原っぱしかなかったこの地に、古材屋を創業した。
古材屋とは、家を解体した際の廃材を再利用品として取り扱う店。
当時は、材の再利用を前提として丁寧に建物解体を行う「壊し屋」というプロフェッショナルも存在したという。
木造なので、部位ごとに丁寧に分解・分別されていれば、再利用可能な材となったのだ。
店構えはともかく速やかに店を開きたいという人々は多く、しかし木材もなかなか手に入らなかったこの時代、安価な古材は重宝された。
戦後になり、「これからは新材(あらざい)の時代」という知人からの勧めもあり、野口材木店は現在のような新材の材木屋となった。
すぐ近くの要町交差点にある池袋木市場で木材を競り落とし、工務店からの注文に応えて納品するようになる。
時代は移り、山手通りには首都高の高架が建ち、周りの風景は様変わりした。
だからこそ、この残り続ける場所には強い価値がある。
そんなことを思った。
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