top of page

014. 埼玉屋とうふ店

更新日:2019年9月18日

池袋だけど埼玉屋、豆腐といえば埼玉??

坂下通り商店街の始点となる三叉路。

その三叉路のすぐ近くに建つ埼玉屋とうふ店は、大正12年(1923年)創業という、長い歴史を持つ。


店に入ると、ステンレス製のショーケースに、厚揚げやがんもどきなどが並ぶ。

豆腐は、左側の水槽型のショーケースの中で、水に浸かりながら並んでいる。

3代目店主の山中富士夫さん(写真右)にお話を聞いた。



上京して創業すること

昭和5(1930)年上棟式の様子。 当時周囲はまだ何もない野原で、坂下通り商店街が形成されたのもこの後の事。


初代の山中留五郎さんは、埼玉県北部の農家の末っ子として生まれた。名前に「留」と付けるのは、これで子作りは最後にしようという親の意志が表れているのだそうだ。


当時の農家といえば、長子が全家督を相続し、次男以降には何も与えらえない。

だから東京に出てきて事業を興し一旗あげるというのが、一つのスタイルであった。

上京して一旗あげるといっても、当時は職業安定所や人材会社など無かった時代。

東京で先に事業を興している親戚や知り合いを頼り、そこで丁稚奉公をして経験を積み、その後に自分で開業するしかなかった。


1923年に晴れて豆腐屋を創業した留五郎は、自身の出身地を思い、「埼玉屋」と屋号をつけた。




さて、この「埼玉屋」という屋号、実は東京の豆腐屋に多い屋号だという。

それは同じように埼玉の農家から上京して丁稚をした先が豆腐屋だった若者が多かったからであり、先んじて東京で成功していた豆腐屋が埼玉方面にネットワークを持っていたのではないかと連想される。

ちなみに新潟から出てきた「越後屋」も豆腐屋が多く、東京の豆腐屋の勢力は埼玉と新潟に二分されるほどだそうだ。



商店街の栄枯盛衰

その後、終戦を経て高度経済成長の時代。

周囲一帯は人口が増え、街が形成されていく。

児童数の増加に伴い、大明小学校が新設されたのもちょうど同時期。

何か作って売れば、必ず売れて儲かる時代でもあった。

もともと栄えていた庚申通り・えびす通りの商店街から延長されるかのように、人が商店を呼び、商店がまた人を呼び、坂下通り商店街は繁栄した。

あまりの混雑に、自転車も通行できないほどの賑わいぶりだったという。


けれど、今やその影はない。

シャッター商店も増え、商店街は存続の危機にある。

一般的にはスーパーやコンビニ、地下鉄の開業等がその衰退の原因と語られるが、

山中さん曰く、「ライフスタイルの変化が一番大きい。」という。

当時は冷蔵庫すらある家は少なく、その日の食材をその日に買いに来る必要があった。

冷蔵庫が普及すれば、買い物は週に一回まとめてでいい。まとめるから商店街より効率のいいスーパーへ。

「変化に商店街が対応できなかったのでは。」と山中さん。



これからの商店街像

さらにモノが飽和し、ネットで繋がり、もはやどこでも何でも手に入れられるようになった現代。

商店街に未来はあるだろうか。

そこで山中さんが「これが参考になるのでは。」と一枚のチラシを取り出した。

台東区主催で台東・鳥越地区の商店街にて行われる「まちゼミ」というイベントの案内。

各商店の店主を「講師」と見立てて、設定された日に申し込んで行くと、その店のプロの技やコツなどを学んだり体験したりできる、というもの。およそ15の店舗がこれに参加している。


実は埼玉屋とうふ店でも、2018年10月に単独で「まちゼミ」としておから味噌作り教室を開き、参加者は作業場まで入って実際の道具を使いながらおから味噌を作って持ち帰ったそうだ。


「豆腐はどこでも買えるけれど、なぜウチでないとダメなのか。 <モノ>自体が良いのは当然のこと。今は<モノ>よりも<体験>や<つながり>が求められつつある時代。」

そのように考えると、<体験>や<つながり>を提供するという意味では、大型店舗やコンビニよりもはるかに商店街が優位に立てる可能性がかなりあるのではとも感じられた。


シャッターが増える商店街にあって、元気にフル稼働を続ける埼玉とうふ店。

おみやげに厚揚げとがんもどきを買ってみた。


厚揚げは絹豆腐を使った「絹揚げ」という珍しいもの。(普通は木綿などの硬めの豆腐で作る。)

表面の滋味深い衣と、中のきめ細やかな絹豆腐が絶妙の組み合わせ。

確かにこれは、ここでないと買えない味だ。


埼玉屋とうふ店

豊島区池袋3-35-9

9:00~19:00(日・祝休み)

とうふ(絹/木綿) 190円, 生揚げ/絹揚げ 190円, 豆乳 130円, 油揚げ 80円, がんもどき(大) 190円等

Kommentare


bottom of page