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004. 丸安佐藤建設

三世代工場は歴史を語る

境橋界隈で古くから3代続く工務店がある。

丸安佐藤建設はもともと木製建具屋として生まれた。

現在はマンションとなってしまっているが、かつては谷端川沿いまでの大きな街区がその工場だった。






3代目の佐藤成世さん。

丸安佐藤建設の代表であるだけでなく、発電機会社の支部長、さらには豊島区サッカー協会の理事長等も務め、地域の催事に顔を出すことも欠かさない。

まさに「地域の顔」という表現がぴったり。








元祖<起業家>像

1960年代、谷端川沿いには町工場が建ち並ぶ

創業者は佐藤安治郎さん。

丸に安治郎の「安」を入れた屋号「丸安佐藤建設」は、1964年(昭和39年)東京オリンピックの年、東京で木製建具屋として創業した。

やがて昭和40年代に入るとアルミサッシが登場する。当時はまだ現在のように規格も無ければ量産もできていなかった時代。安治郎はここに目をつけ、妙見屋(後の東洋サッシ、現在のリクシル)と共にアルミサッシの規格化や開発に携わる。

木造住宅のモジュールに合わせたアルミサッシの規格がここに体系化された。


また、当時の建具屋といえば大体2~3名の小規模な会社で、工務店の下請けをしていた。

安治郎はこれらの他の会社と建具組合を結成し、その組合合同の大きな受注工場を浮間(北区)につくった。組合で受注し、規格化され精度の良い建具をその工場で製作するようにしたという。


さらには、大明小学校(現みらい館大明)設立を豊島区に駆けあって実現させたのも安治郎氏と近所の数名の実力者たちだった。


まさに現代で言うところの「起業家」の元祖だ。

戦後復興から高度経済成長、そしてバブルまでの時代、世の中で必要とされるものを見出し、製作し、仕事にして飯を食っていく。

実はこの地域には、この時代のこういった人々が結構住んでいた。



変遷し生き残る町工場

アルミサッシは爆発的に普及、木製建具も規格量産化が進み、建具屋としての木製建具は市場が縮小する。

丸安佐藤建設の元請けとなっていた工務店も経営悪化や事業承継不全で数を減らしていった。


「もしあのまま木製建具一本でやっていたら、うちは今無くなっていたかもしれない。」

と佐藤さん。

木製建具屋からアルミサッシ屋を経た丸安佐藤建設は、2代目雅一の頃、工務店の下請けから、元請けとしての工務店へと業態転換する。


「元々、建具は開口部の納まり。納まりが分かるから建築はできた。」

確かにその通りで、建築は構造・開口部納まり・雨仕舞い納まりができてしまえばほぼ建つ。

というより、設計者も施工者も、毎回苦労し悩まされるのがこの3点だ。


残念ながら、建具自体をゼロから製作する技術や機械は残っていないとのこと。

しかし会社自体は時代に合わせて業態変換して、今も生き残っている。



まずは一緒に作るところから




インタビューの途中で、ちょうど仕事を終えた佐藤プラスチックの杉本さんが立ち寄ったので、話に加わってもらう。


どこの町工場にも共通する「後継ぎ不在問題」について尋ねると、

「自分の代で終わりかな」

と口を揃えた。






11-1Studioで考えているのは、そんな商工人が外部の人と共に<学びと交流>をはかり、廃業・売却でも事業承継でもない第三の存続の道について話し合って模索する地域拠点のような場所。

そのアイデアについて意見を聞いてみると、2人とも少し渋い顔をした。


「意欲がね。そこまで参加しにくる意欲を持った商工人がどれだけいるか。年齢と共に意欲はやっぱり薄れる。」

やはり人の意識や考えを変えさせることほど難しいことはないというところでしょうか。


しかし、

「作る過程から巻き込んで行くというのはありうると思う。職人さんは急に話をするというのは難しいけれど、一緒にものを作ることで腹を割って話せるようになる。仕事として作るものがあれば、たとえ無理があろうとも何とかしてくれようとするのがこの辺の人たち。」

とも。

確かに、これには思い当たる節があります。


今後について重要なヒントをもらって、インタビューは終了した。


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